3月29日夜、志村けんさんがお亡くなりになられました。
30日の朝にこの事を知った私は身内を失ったような感覚になりました。実際にお会いしたことはないのにこの喪失感…。志村けんさんの偉大さにあらためて敬意を表しますとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
唯一土曜日だけはプチ夜更かしを許された
「8時だヨ!全員集合」が最盛期だった頃、私は小学生でした。
当時は夜は8時に就寝するように躾けられていたのですが、土曜日の夜だけは9時過ぎまで起きていることを許されていました。
「8時だヨ!全員集合」を見るために。
私の両親は脱サラしてラーメン屋をやっていたので夜は11時頃まで帰って来ず、8時に就寝していた子供の私は起きて待っていることはほとんどできていませんでした。
土曜日だけは違います。「8時だヨ!全員集合」を見て思い切り笑って9時過ぎに就寝した時は、両親が仕事を終えて帰ってくると目が覚めて出迎えることが出来ました。
「8時だヨ!全員集合」の楽しみと、仕事を終えて帰ってくる両親をベッドから飛び出して出迎えられる楽しみがあったのが毎週土曜日でした。
両親のお店は経営に失敗して潰れ、父も4年前に72歳で亡くなりました。
志村けんさんは父より更に早い70歳でお亡くなりになった。早すぎるけど、太く短く生きるという人生だったのだろうと思うと不思議と納得できてしまう。
空虚感はとてつもなく大きいですが。
俺たちひょうきん族や数々のお笑い番組が流行ると少し寂しくなっていた頃
俺たちひょうきん族も大好きでした。子供心ながらにドリフターズとひょうきん族メンバーは仲が悪いのだろうと勝手に思っていました。もちろん真相は知りません。
俺たちひょうきん族をみて笑っていると、時々ふっとドリフに申し訳ないような罪悪感が湧いてくることがあった。
ドリフターズ世代の人達は、こんな感情になる方が多かったのではないでしょうか。
いかりや長介さんが亡くなってからの志村けんさんに哀愁を感じるように
いかりや長介さんが亡くなった時も大きな空虚感があったが、それよりも寂しい感情を抱いたのは志村けんさんや残ったドリフターズのメンバーをテレビ画面越しに見た時だった。
いかりや長介さんはドリフターズのリーダーであるとともに、渋くていい味を出す俳優としての空虚感があったことが逆に志村けんさんや加藤茶さんとの距離を感じていた。
もちろんそんな事は私の勝手な感覚であってご本人達はもっと他の感情だったのでしょう。
一つの時代が終わってしまったという強い感覚もこの時は感じていました。そしてドリフ時代の終わりをもっと強く感じていたでしょう、志村けんさんをテレビの画面越しに見るたびに哀愁を感じるようになったのは私だけではなかったのではないでしょうか。
志村どうぶつ園では志村けんさんの衰えを感じつつも元気をもらえる不思議な感覚に
志村どうぶつ園での志村けんさんから年齢による衰えを強く感じ、失礼ながら痛々しく感じることもありました。
そんな事を感じるのは本当に申し訳ないと思っている自分もいるが、そう感じてしまったことを正直に残しておこうと思います。これが私の志村けんさんへの思いだから。
でもチンパンジーのパン君たち、動物達にやさしく愛情を注ぐ志村けんさんを見ているうちに、新しい志村けんというキャラクターを築き上げたプロ魂を心強く感じるようになってきました。
不思議と志村けんさんの衰えを感じつつもエネルギーを感じるようになっていたのです。
私も会社で中堅以上の立場へなっており、自分自身への衰えも感じるようになっていたことから気付きました。
志村けんさんが衰えているのではなく、自分が衰えているのだと。
私の人生に寄り添ってくれてありがとう。腹の底から笑わせてくれてありがとう。ネタを真似する楽しみをありがとう。安らかに、しばらくお休みください。
志村けんさんは常に私の成長とともに在り続けてくれました。ヒゲダンス、カラスの歌、キャンディーズやピンクレディーとのコント、ちょっとエッチなコント、バカ殿…いつの時代も私の成長の中の一場面にその存在がありました。
仕事仲間にもバカ殿そっくりの同僚がいます。
祖父、祖母、父はもういませんが、思い返すと家族の笑いのネタには志村けんさんの真似が必ずありました。
私の人生と共にあってくれて、本当にありがとうございました。
偉大なコメディアンとして伝説になるのでしょうが、私の人生の中でもいつまでも偉大なコメディアンであり続けるのは「志村けん」です。